母親の「農家だけでは食ってけないから、職人になれ」という言葉
どのような経緯でこの世界に入ったんですか?
終戦の年、当時、18歳だったんですが、兄が戦争から戻ってきて、これからは、農家だけでは、食っていける力はないからって「お前は職人になれ」と母親から言われ、知り合いの紹介で、地元の工務店で、働き始めました。
当時は、昔でいう丁稚奉公(でっちぼうこう)で、お給料はないが、その代わりに、技術をただで、学ばせてもらうと言うもの。お小遣い程度だけもらって暮らし、休みは、今のように曜日制ではなく1日と15日の月二日と決まっててね、それでも、休みの日も、半日くらいは、道具を直して、それから、お昼食べて、映画やらに出かけていってたね。
最初は、そこで住み込みをしてたんだけど、戦後で、どこも食料難だったものだから、そのうち、家から通ってくれないかとなり、実家から自転車で通ってたよ。さすがにコッペパン一つなんかじゃ、とても体力もたないしね。
- 上棟式後の記念撮影
そこで、どのくらいの期間、働いたのですか?
丁稚奉公だった8年間の中でも、2、3年すると、自分に弟子ができて、仕事も少しは楽になったりもしたよ。 でも相変わらず、8年間は、無給だったけどね。 丁稚奉公を終えた後、今度は2年間、お礼奉公(お給料をもらえる形)として働いた。
入った頃、兄弟子から、手をとって、かんなの持ち方、研ぎ方くらいは教えてもらえるんだけど、あとは人のを見て覚える。現場へ、一人先に行って兄弟子がどういう仕事をやったかみて、それで覚えていくんだ。
こういうのは、こうやるんだ、なんてのは、兄弟子はめったに言わない。昔は、どんな仕事もそうだったよ。今よりは気合いが入ってたかな(笑)
昔は、ここ練馬に杉山があって、その木を使って、家をつくっていたよ。
最初は、会社なんかじゃなくて、個人でやってた。
稲の脱穀機なんてのも、「お前作れるだろ?」と頼まれて、作ったりもしたよ。こんな風に本当に初めは、親戚やら身近な人から頼まれて、何かを作ってた。ただ、個人で仕事を受けてたら、ある日、税務署からチェックが入っちゃって、
これは、個人でなく会社組織にした方が良いって周りからアドバイスを受けて、昭和30年に、上野建築店と会社にしたんだ。
- 50年前に建てた家。増築はしているが、今も同じ姿で残っている。
- 昔は足場も木組みだった。
このページ、先頭の写真では、何をしてる所ですか?
これは、棟梁送りって言うもので、地元の名主とかが、家を建てた時、上棟後、棟梁をねぎらう為に、弟子、トビ、瓦屋、左官などの職人達が、棟梁を自宅まで皆で送り届けてやるんだ。そこで今度は、棟梁が、皆を座敷に上げて、盛大にもてなしてをする。今では、やらないけど、うちでは、おそらく昭和45年くらいまで、やってたかな。
昔は、この辺り(練馬区一帯)は畑や林で、地元の裏の杉山の木を伐って、それで家を造ったりもしたよ。今では考えられないね。
製材屋ができるまでは、自分らで、のこぎりで丸太を四角にして、それも大工の一つの仕事だったからね。
戦後は、いろんな機械が発明されて、 大工の仕事の在り方が変わってきている。 ただ、大工の心意気ってのは、昔も今もそんなに変わっていないな。 家も木造から、コンクリートの家へと変わってきているが、やっぱり木の家はいい。体にもいい。
うちで、やっているソーラーサーキット(外断熱・二重通気工法)の家は、 昔の断熱方法とは違って、施工の手間も掛かるが、なんたってお施主様の評判が良い。 これから家を建てようとする人は、是非、興味を持って欲しいと思う。省エネで地球環境にもやさしく、私たち年寄りにもやさしい家だから。
2008年3月 東京都練馬区 上野建築事務所にて
会長 上野幸一氏